「地獄の日本兵−ニューギニア戦線の真相」を読んで

 題名は“地獄の日本兵−ニューギニア戦線の真相」を読んで”としているが、実は、なぜこの本を読んだかを喋りたいのである。

 本屋でこの本の“はじめに”を読んだ。そこには「小泉元首相も、特攻隊基地のあった鹿児島県南九州市知覧町の知覧特攻平和会館で、遺品を前にして涙をこぼしたといいます。しかし、と私は思うのです。多くの人が忘れてしまったこと、知らないことがある、と。太平洋戦争中の戦死者数で最も多い死者は、敵と撃ち合って死んだ兵士ではなく、日本から遠く離れた戦地に置き去りにされ、飢え死にするしかなかった兵士たちなのです。」と書いてあった。

 南方の島に送られた日本兵がバタバタと病気で死んでいった事は父から聞いていたので知っていた。父が生きていた時、何度も戦時中の話は聞いたが、後半は「もうその話は聞いた。」と話を遮っていた。ところが今考えると父が南方の戦地でどういう生活をしていたのか、話を聞いたのかもしれないが、良く覚えていない。そういう戦地で何が起こっていたのか、復習するためにこの本を読んだ。

 父は陸軍だった。尋常高等小学校しか出ていないので当然下っ端だった。最初、福岡近辺が根拠地だったのか、完全武装状態で宝満山に登る訓練では山頂まで登りきらなかったらしい。軍隊では良く殴られた話をしていた。全て連帯責任なので、同じグループの東大出身の兵隊が軍人勅諭を暗唱できずに困った話をしていた。父が送られた南方の島がどこだったのか、今ではよく覚えていない。ラバウルという言葉はよく聞いたので、この本のニューギニア近辺に送られたことは間違いないだろう。

 出征する時か、島に送られる時かは知らないが、親がこっそり、「一番先頭には立つなよ」と言った話をしていた。当時、世の中全体が戦争に浮かれていたように見える中でこれが庶民の正直な言葉、本音ではなかったのか。

 駆逐艦で送られたようであるが、敵機が来た時、海軍の兵隊が白鉢巻で機敏に行動する姿を見て陸軍と違って海軍の兵隊は立派だと感じたようである。

 南方の島で戦闘があった話は聞いたことがない。ただ、毎日、病気で数名ずつ死んでいくので、毎日、椰子の木の下で死体を焼いたそうである。物資の輸送は夜中に駆逐艦がドラム缶を落としていくのを回収していたようであるが、食料も医薬品も不足していたのであろう、父もマラリアになり、体重が30kg台まで落ちたと言っていたから死ぬ寸前まで行った様である。

 まだ、南方戦線の初期の頃であった為か、父は「病気なので日本に帰らせて欲しい」と上官に言って、日本に帰ってきたらしい。激戦真っ盛りの状況であれば、このように日本に帰れるはずはないので、多分、戦争初期の頃のことであろう。それでもその頃から既に毎日病気と飢えでバタバタ日本兵は死んでいたのであるから酷い話である。

 父は船で白木の箱に入った遺骨と一緒に日本に帰ってきた。遺骨と言っても指の骨のかけらとかだったのかもしれない。船の中では白木の箱に腰掛けて、日本に着いた時には、大勢の人が見守る中、神妙な顔で白木の箱を携えて下船したらしい。

 その後、父は皇居の警備、宮城警備というのか?、についたり、福岡市辺りで憲兵になって市内警備をやっていたらしい。尋常高等小学校しか出ていないのにどうやって憲兵になったのかは知らない。ただ、憲兵であったために戦後、郵便配達、昔の郵政省の試験を受けようとしたら公職追放で受験できなかったらしい。父の兄も同じく憲兵であったが、外地であったため、戦後殺されたらしいとのうわさだけで、真相は不明である。

 この本を読んでいて思うのは、大本営の無策振りである。著者の“おわりに”に次の言葉がある。「兵士たちはアメリカを始めとする連合軍に対してではなく、無謀で拙劣きわまりない戦略、戦術を強いた大本営参謀をこそ、恨みに怨んで死んでいったのです。
 さらに著者は、戦後、責任をとらなかった大本営参謀を非難し、日本の都市の絨毯爆撃を立案、指揮したアメリカの空軍少将カーチス・ルメイに昭和39年に勲一等旭日大綬章を授与した日本政府を非難している。

 戦争に従軍し、悲惨な目にあった人間なら大本営や日本政府の対米従属に対して、避難するのは当たり前だろう。もし、彼らに同調する人間がいるとしたら、それは戦争で甘い汁を吸った人間とその関係者であろう。

(2008年8月3日 記) 

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